私の少年時代

私の青春時代 その7

不定期で掲載させていただいた「私の少年時代」シリーズ。最終回の今回はちょっと長いですが、お読みくだされば幸いです。

高校3年になったばかりの昭和55年4月。父が脳内出血で倒れました。すぐに入院・手術。経過は良好かと思っていたのですが、検査で思いもよらない状態が判明しました。脳内に複数の動脈瘤が残っていたのです。衰弱している身体での長時間の再手術は、当時としては大変に危険で、医者からは「成功の確率は20%です」と言われました。このまま頭の中に瘤がある状態でも数年は持つが、手術しても保証できないというのです。

手術の後も笑顔で言葉を交わしていただけに、危険な状態とはどうしても信じられません。医師の不手際ではないのかと不信感も抱きました。不安の中を家族会議。周囲から励まされていた母は、腹を決めた表情で再手術に賭けると私たち兄妹に告げました。手術の結果が思わしくなくても病院の責任を問わない主旨の誓約書にサインもしました。

喪服をスーツケースに詰めた親戚も駆けつけた手術は、12時間半かかって成功したのですが、病室に戻って来た父の姿は、体重が半減したと思うくらいやせ細り、頬もこけ、額の骨が陥没していました。緊迫の1夜が明け、生命はとりとめましたが、意識不明の昏睡状態。2週間後に目を開けたものの、判断もできず声も出せない植物人間のままでした。TVドラマの中とばかり思っていた世界が、自分たちを直撃したのですが、ショックを通り越して呆然としたことを思い出します。

しかし、母は強かった。病院に泊まり込んで、弱音ひとつ吐かず必死に看病しました。私たち子どもも懸命にサポート。学校から帰って妹が洗濯した両親の衣類を持って病院に行き、看病を母と交代。おむつの世話や髭剃り以外は、特別に許可をもらって病室で受験勉強をしました。そして深夜に、心身をリフレッシュさせた母と交代して帰宅する毎日だったのです。

少しずつ回復してきた頃、1日だけの外泊が許され、父は半年ぶりに自宅に戻りました。ライトバンの後部シートを倒してふとんをひき、時速10Kmくらいでのトロトロ運転での帰宅でした。心配してきていただいた何人かの方々に協力してもらい、かつぎあげて一階の仏間にあるベッドに移動。水入らずのひとときを過ごしていた時、奇蹟が起こりました。かすれた呻き声しか出なかった父が「やっぱり家がええなぁ」と普通の声で話したのです。驚くと同時に、両親が熱心に励んでいた仏法への信仰が物凄いものであると、痛切に実感することができました。この1日の出来事は、その後の私の人生に大きな影響を与えたと思います。

その日以降は順調に回復し、リハビリ専門の完全看護の病院に移ったあとも、我が家の戦いは続きました。一生車椅子生活しか無理と宣告された父が、入院期限の特別延長が繰り返される中、みるみる元気に変わっていきました。半身不随の悲哀を乗り越え、絶望感を笑い飛ばしながら、愚痴一つこぼさず過酷な機能回復訓練に挑む2人の後ろ姿は、子どもにとって最高の教育となりました。

翌年、主治医が奇跡ですねと驚嘆するなかを、父は念願の退院を果たしました。しかも、歩いてです。吉田家の宿命を転換した勝利の瞬間でした。その頃は、私自身も一時は絶望していた大学に合格し、名実ともに我が家に春が来ていました。合格したのは、私立大阪芸術大学。高校で配布された大学リストの最下段に掲載されていたのですが、そこだけが「偏差値欄」に数値が載っていませんでした。偏差値判定不能の“ヘンテコ”なところが気に入ったのです。

社会復帰を目指しての在宅のリハビリ期間であったため、父の処遇は病気休職中。したがって給料はガクンと落ち込み、私立大学の学費どころではありませんでした。貯金も入学金でほとんど消え、私の大学生活は極貧のバイト生活とともにスタートしました。若い日々の苦労は、最高の財産だと、今になって実感します。

以上、10回にわたって、少年期から高校卒業までの半生を、紹介させていただきました。これからも、庶民の痛みを代弁する議員として成長するよう、頑張ってまいります。


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