私の少年時代

私の青春時代 その2

自分の性格を自己分析すると、粗雑でズボラなのですが、けっこう凝り性なところがあります。

野口英世をきっかけに、小学校時代はポプラ社と階成社版の世界偉人伝集を全巻読破しました。山口百恵ファンだったので、主演映画の原作をきっかけに川端康成と三島由紀夫にのめりこみました。漱石・鴎外にも突撃したなぁ。不思議な少年でしょ?

中学時代は、横溝正史ブームがあって、友人と回し読みしてスピードを競い合い、感想を述べ合っていました。太宰治や芥川などの文学好き青年にとって通過儀礼と言える作家にもはまりました。そこからは手当たり次第です。

活字中毒は今も後遺症が残っています。まじで幸せなことだと思ってます。

スポーツも凝りました。相撲(北の湖全盛)やボクシング(具志堅全盛)も雑誌を購入しまくりました。北野天満宮の毎月25日の天神さんでは、古本の一角に欠かさずに通って、大鵬や原田の時代の雑誌を探しました。

その中でチャンピオンは、やっぱりサッカーです。専門雑誌や書籍を求めて、京都中の書店や古本市をさまよい歩きました。頭の中はサッカー関連の雑学で今もいっぱいです。(←威張らんでもええやん、との声あり)

ビデオが普及したのは社会人になってからですが、サッカー・ボクシング・相撲の名勝負ビデオは、あらかた収集しています。(独身時代の給料はほとんどこれらに消えました)

雑誌はかさばるので、かなり処分しました。泣く泣くです。惜しいなぁ・・・・(遠い目)。ビデオは今も時々鑑賞しています。観ながら「そこやっ!」「走らんかっ!」「何してんにゃっ!」と無意識で叫ぶらしく、家族からは「結果のわかってる試合見て、何が嬉しいんや?」と気味悪がられています。

前置きが長くなりましたが、中学時代の私は、サッカーの知識については同僚の誰にも引けを取らず、最新の戦術論にも通じていたためか、先輩からも一目置かれ、たいして上手くないのにスタメンを張っていたのです。

これでも、頑張って勝利に貢献していたのですよ。影でランニングや自主トレに励んだ努力は報われるものですよね。赤に白襟のユニホームの背番号は、1年なので「15」。釜本の日本代表での番号と同じなので、おこがましくも「オレも!」と夢を抱いていたものです(またまた遠い目)。

ところが、2年の6月、休み時間のボール遊びで右手中指を骨折していまい、ブランクを作ることになってしまったのです。完全に自分の油断。悔やんでも悔やみきれません。1か月はボールを触れず、ランニングと筋トレのみの練習に耐えるしかありませんでした。

そして、7月。満を持して復帰を果たし、勘を取り戻すため練習試合にも途中出場させてもらったのですが、1週間もたたずに再び怪我をしてしましました。今度は左肩の骨折! 何というバカなことでしょう。しかもかなりの重症で、結局は入院し手術も余儀なくされたのでした。

入院先の休憩室のTVで、同世代のコマネチがモントリオール五輪で10点満点を連発している活躍を、ぼんやりと観ていたことを昨日のように思い出します。

今となっては、若いころの挫折はプラスになったなぁと実感しますが、その時は暗澹たる思いでした。ポジションを奪われ、試合も勝ち進み、好成績を収める中で、自分だけが取り残されてしまっているのですから。

そこから這い上がる日々が始まりました。ホロ苦い青春ドラマの王道の筋書きですが、歯をくいしばってリハビリと自主トレに励みました。復帰まで1年。長かったですが、今思えば最高の財産です。

3年の夏季大会に実戦復帰にてプレイできたときの感動と、チームメイトの笑顔は間も忘れません。根性と友情は尊いですよねっ!

そんなに多くはないでしょうが、関心ある方がいらっしゃるかもしれません。続きはいつになるやら・・・・・。慈悲深く気長に続きをお待ち下さい。

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