私の少年時代

私の青春時代 その5

昭和53年4月、私は京都府立山城高校に入学しました。あの釜本邦茂氏の母校というサッカーの名門校です。私自身もサッカーに未練はありましたが、二足のわらじは許されず入部を断念しました。有名進学予備校に通うことを選択したからです。

希望を膨らませて同級生たちが体育会系や文化系のクラブに入部していくのを横目に、私は「スケート同好会」を選択。所属しても冬場しか活動しないのが大きな理由でした。勉強一本やりで3年間を過ごす覚悟でスタートを切ったわけです。

しかし、ほぼ毎日通った予備校では、周囲はすべてライバル。切磋琢磨する競争相手と言うよりも、敵同士が無言で火花を散らし合う何とも表現しにくい重苦しい毎日でした。

今から振り返ると、当時は「受験戦争」という言葉が定着したあとに、「偏差値」という新しい概念が巨大な塊となって押し寄せてきた頃でした。それが爆発して「校内暴力」が吹き荒れるのは、少し下の世代からです。

ちなみに、同級生には名だたる人物がいます。敬称略で羅列すると、オウム事件の上祐史浩、オタクの元祖・宅八郎、先日死刑執行された宮崎勤、金属バットで親を殺害した一柳某(名前失念)などなど、時代の落とし子のような群像ばかりですわね。

ただ、同級生の名誉のために、他の人たちも紹介しますと、ソフトバンク監督に就任した秋山幸二、知性派タレント麻木久仁子、現代政治学者飯尾潤、「ごくせん」の脚本家・江頭美智留、歌人の黛まどか、俵万智、女優のジョディ・フォスターやデミ・ムーアなどなど、多彩な顔ぶれが並んでいます。(女性優位なので、格闘技界のカリスマ高田延彦総統とトム・クルーズも加えておきます)

脇道から本筋にもどると、私は超ヘヴィーな受験戦争に耐えきれず、討ち死にしまいました。点数が低くても偏差値が高ければ評価されることが全く理解できず、達成感を得られないまま自信だけを喪失し、半年で挫折してしまったのです。

予備校を退学し、ぽっかりと心に穴が開いた状態で帰宅部へ。当然、スケート同好会も身が入らず、幽霊部員のままでした。16歳の誕生日を終えた頃の青春は、まさに灰色だったのです。そこから、どのような高校生活が繰り広げられていくのか・・・・・。

詳しくは次回に述べます。気長にお待ち下さいませ。

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