私の青年時代

私の社会人時代 その4

今回から2回に分けて、1990年秋に京都市の実家に戻ってから、結婚して今のマンションに引っ越す1995年秋までの5年間を振り返ります。ちょうど、バブル絶頂期から崩壊に移行する転換期。私の人生を左右した激動の日々です。(ちょっと大げさかな?)

大阪から京都に戻ったのは、1人暮らしが10年を超えて、気楽な独身生活に飽きてきた時期に、何組かの身近な人たちの結婚式に参列して、大いに触発されたことが理由だったと思います。

友人たちと飲みに行っても「結婚」や「恋愛」の話題が増えてきて、のんきな私のお尻に火が付いてきました。結婚式の披露宴や二次会、同窓会などで、旧友たちと再会する機会が増えてもきました。

そんなこんなで、28歳の誕生日を機に「身を固めるなら故郷の京都で」と決断し、高校3年まで住んだ実家に戻ってきた次第です。(ときどき思います。もし大阪に住み続けて所帯を持っていたら、議員にはなっていなかったかも・・・・と)

職場までの通勤時間は3倍近くになりましたが、生活上の煩雑な支度などは母親が全部やってくれるので、急に身軽になった想いがしたことを覚えています。仕事も、コンピュータ販売にとどまらず、IT専門商社として全国を駆け回り始めた絶好調のころ。会社の中核としてバリバリ働いていました。

そんな頃、転機が訪れます。ある方からお誘いを受け、京都さくら少年少女合唱団という市内の小学生たちのコーラスグループのスタッフとして加入したのです。

最初は戸惑うことばかりでしたが、疲れも恐れも知らない活発かつ無邪気な子どもたちのパワーに触れ、月2回の練習の運営は実に楽しいものでした。

ものすごいスピードで成長する子どもたちの無限の可能性は、私自身の人生にも大きな影響を与えました。京都各地のイベントに招待されたり、大阪などにも遠征するくらいの活躍を見せ始めたころには、合唱団の活動にのめりこんでいったのです。

そして、前任者の方から「君しかいない」と懇願(?)され、向う見ずにも運営責任者の大任を引き受け、団長を務める先輩との二人三脚をスタートした直後、スタッフに加入したのが、現在の女房です。

多くの女性スタッフの最年少でありながら、周囲に変に気を使うことのない、ある意味「自然体」の女性であり、すぐに仲間の一員として打ち解けました。幼稚園教諭であったためか、子どもたちから絶大な人気を集め、「へぇー」と感心したことを記憶しています。

といっても、あくまでも主役は子どもたちであり、大人のスタッフは黒子です。当然ながら、恋愛沙汰のドロドロはご法度。私自身も恋心を抱くヒマはありませんでした。みんな多忙を極める中のボランティアであったため、めまぐるしく日々が過ぎて行ったからかもしれません。

ところが、運命は突然やってきます。――ある土曜日、私は“死”に直面しました。実家で朝風呂に入っていたとき、ぼんやりして湯船に張った水が熱湯になったことを忘却し、大やけどを負ってしまったのです。

顔面や喉の粘膜をやられていたら、のたうちまわった挙句に死んでいたでしょう。幸いにも、やけどは首から下であったため一命をとりとめたのです。と言っても体の4分の3以上でしたので、皮膚呼吸が不可能になる一歩手前の、大変に危険な状態でした。

不注意とはいえ、命にかかわる大やけどで、仕事や合唱団活動などから戦線離脱。3週間の入院中は、ミイラのように体中を包帯でグルグル巻きされ、1日2回の包帯交換での激痛に耐える日々でした。

入院当初は、赤ちゃんがオムツを替えてもらうように、あおむけ状態で看護師さんにされるがままでした。あー情けなかった〜。見舞いに来た友人たちからは「しゃぶしゃぶやー」とか「水炊きやー」と冷やかされました。ぐすん。

そんな病床に、今の女房が心配そうな表情でお見舞いに来たとき、私の心に劇的な変化が訪れました。ゴングというかチャイムというか、うまく表現できませんが、何かが鳴り響き、そこから何かが始まったような気持ちになったのです。(ヘンな書き方ですいません)

その後、退院して仕事や活動に復帰しましたが、少しずつ彼女が気になる存在になってきました。急激にのめりこむようなものではなく、ゆっくりと心が傾いていったような感じですが、責任重大な合唱団活動を真剣勝負で運営する日々に、「潤い」がもたらされたような気がします。

時あたかもバブル崩壊直後、世相が不安に覆われそうになりながらも、何とかしなければとあがいていた頃です。会社の新製品をインターネットで全国に告知した広報戦略が当たり、ある意味、社運を左右するくらいの重責を担い、日本中を奔走する激務が加速度を増したことで、合唱団活動から身を引くことを決意。

盛大な送別会を開いて頂いて後任の方にバトンタッチを終え、もう苦楽を共にした仲間とお別れと思ったら、何とも言えない気持ちになりました。それくらい賭けていたんですねぇ。

退団後、半年くらい経ったころでしょうか。ふとひらめきました。スタッフ同士の恋愛はご法度です。と言うことは、スタッフでなくなったら・・・・解禁やんか! よっしゃぁーとばかり、ありったけの勇気を奮い起し先輩にも相談。「あかんでもともと、当たって砕けろ」とハラを決め、アタックを敢行したのです。

私のものすごい攻勢(?)に戸惑いながらも、彼女は悩みまくったそうです。そらそうです。合唱団の仲間にも示しがつきませんし、仕事も重要な立場を与えられたばかりの大事な時期だったそうです。

2人で誠実に話し合った結果、合唱団活動などの区切りがつく一番良いタイミングまで待つことで合意。何週間に1度あるかないかのデートで清純にお互いの心を育んでいきました。

今から思ったら、ほんまにシアワセな日々でした。会える頻度は少なかったですが、甘ずっぱい思い出もいくつか作ることができました。

ところが、そろそろ「結婚」の2文字が頭の中で駆け巡り始めたころ、2つの途方もない大きな障がいが私たちを襲いました。それは――、次回に述べさせていただきます。(もったいぶってスイマセン・・・・)


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