私の青年時代

私の学生時代 その3

大阪芸術大学は、大阪と和歌山・奈良の県境にある、緑豊かな田園地帯に位置する郊外型の大学です。平成の大合併もなんのその。今も住所は南河内郡河南町です。そして隣は大阪府唯一の村・千早赤阪村。この一帯はマニア垂涎のツーリングコースでもあります。

20歳のころ、とんでもない事故に遭いました。深夜の金剛山をバイクで激走中に、ダンプが落とした砂利にタイヤがとられて、物凄い勢いで転倒してしまったのです。間一髪でガードレールの手前に叩きつけられたので、右半身の擦り傷で済みましたが、即死でもおかしくなかったと今にして思います。

幸いバイクは故障せずに無事。一刻も早く帰りたいと猛スピードで麓へ急ぎました。ところがそんな時に限って、不運と言うかアホと言うか、よりによって白バイにつかまっちゃったのです。「何キロ出してるんや〜? ええかげんせんと死ぬでぇ」と停車させられ、懐中電灯で私の顔を照らした警官は絶句しました。そらそうです。顔面から肘と膝が血まみれの、まるで幽鬼のような形相でしたもん。

あまりの悲惨さに同情した警官は、ハンカチで血を拭きながら「よし、わかった。はよ帰り。今日は目をつぶったる。明日は絶対に病院に行きや」と切符を切らずに釈放してくれました。ホンマに助かりました。貧乏学生にとって罰金は死活問題でしたからね。

緑豊かな南河内の田舎は、青春の汗がしみついています。1年生の夏休みは帰省せずにバイト三昧。学費を稼ぐのに必死でした。昼間は測量助手のアルバイトで千早の山々を走り回り、深夜は工事現場で警備員も経験。命がいくつあっても足りないくらいの危険な目にも遭いました。2年生からは家庭教師とビル清掃の仕事も兼任。こんなスケジュールで学業と両立できていたから不思議です。

3年生の時のバイトは面白かったです。大阪市営地下鉄の車両掃除で各路線の操車場を転戦。くたくたでしたが給料は高かったんですよ。鼻の中が真っ黒になったのには閉口しましたけど・・・・・。変わったところでは、展示会の男性コンパニオンにもチャレンジしました。そこではよほど信頼していただけたのか、新たな展覧会の企画にも携わることができ、いろんな意味で勉強になったと思います。

さて、私の学生時代は、ゴルバチョフが登場する直前の、まさに東西冷戦の真っただ中。世界の主導権を獲るためには、資本主義経済を発展させるのか、それとも共産主義の革命を成功させるのか、侃々諤々のせめぎ合いが繰り広げられていました。

そんな中で、「資本主義vs社会主義」「唯物論vs唯心論」「キリスト教物質文明vs宗教否定の共産主義」というような、短絡的な二者択一ではなく、第三の方向性を志向することが大きな価値を創造するというビジョンを掲げて、私は第三文明研究会の活動を展開していったのです。

先輩方の多くが、公明党を支持していましたので、私も自然に感化されていきました。と言っても、ガチガチの原理主義ではありません。当時もてはやされた急進主義では破壊を生むだけであり、民衆の大海原を基盤としたゆるやかな漸進主義であるべきであると考えていました。そして、既成権力を打倒し体制を刷新するだけの表層的革命ではなく、人間生命の奥深い部分に光を当てた「内在的普遍」に価値を見出す柔軟な発想に、大きな魅力を感じていたのです。

そんなこんなで、私は公明党のサポーターになり、様々な活動に積極的に取り組みました。バイトでくたくたになりながらも、何十冊の書籍を読破し、バラエティーに富んだ芸大生たちと議論を重ね、理論を磨いていきました。そのへんを見込まれたのか、20歳になって半年後、富田林・河内長野・大阪狭山・美原町(現・堺市美原区)地域の学生部責任者に抜擢されてしまいました。えらいこっちゃ。

死に物狂いで頑張った「83年政治決戦」では、仲間たちと団結して歓喜と共感の輪を拡大し、統一地方選挙(4月)、参議員選挙(5月)、衆議院選挙(12月)の三連戦を大勝利しました。大の男がわんわん男泣きをする姿を、初めて見ました。もちろん私も号泣。うれしかったなぁ!

利権やしがらみに縁のない、まさに名もなき庶民が手弁当で無償の応援をするという、他党から見たら脅威以外の何物でもない公明党が、健全な政策立案の流れを大きく進めることこそが、日本の政治を変えていく原動力になると確信することができた学生時代でした。

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