私の青年時代

私の学生時代 その1

おかげさまで、小学生から高校生までの「私の少年時代」シリーズは好評のうちに終了しましたが、何人かの読者から「大学生や社会人になってからの“青年時代”も読んでみたい」とのリクエストを頂戴しました。ありがとうございます。どないしょうかと悩んだのですが、まぁまぁ面白いエピソードもありますので、思い切って新シリーズ「私の青年時代」を始めさせていただくことにいたします。

昭和56年(1981)に高校を卒業した18歳の春に私立大阪芸術大学に進学してから、平成2年(1990)秋、28歳の誕生日を終えてしばらくたった頃に上京区の実家に戻ってくるまでの9年半、私は大阪で1人暮らしをしていました。

そのうちの前半4年間、大阪芸術大学で学んだ日々を「私の学生時代」というタイトルで、卒業して社会人になってからの5年半を「私の社会人時代」として、回想したいと思っています。写真を見てビックリされると存じますが、18歳の私はガリガリで頬がこけたパンチパーマで、学内を闊歩していました。でも、本人はさわやかで親しみやすい好青年のつもりだったのですがね。

さて、芸術家とは似ても似つかないキャラクターの私が、なぜ芸大なのか?――多くの方々の共通の疑問かと思います。しかし、意外かもしれませんが、こう見えて私は「文学」「美学」「芸術」に浸って関係書籍を濫読した時代があり、一般の大学にある文学部にあきたらなくなっていたのです。そんな時に知ったのが、「偏差値」を一切問わないという方針で学生を募っている大阪芸大でした。

ちょうど、父が闘病のため長期休職中だったので、経済的に大変な家庭事情ということで、一時は受験自体を断念しかかったのも事実です。しかし、両親はそろって「大学で学んで社会の役に立ってほしい」と願ってくれていました。加えて、芸大には「学費免除試験」もあったので、踏ん切りをつけてチャレンジし、学科・実技・面接試験を突破。全額免除ではなかったのですが何とか合格できたのです。

キャンパスは、大阪府南河内郡河南町。楠木正成の千早城や日本武尊陵などが近くに点在する歴史のロマンあふれる地域です。『嗚呼、花の応援団』という伝説のマンガのモデルかも?――と、ちょっぴりビビったのですが、近隣の他大学らしいとのことで、ほっと一息して入学しました。21世紀の今でものどかな田園風景が広がっているとのこと。なつかしい第二の故郷です。

1,2回生時代は、キャンパスのふもとにある学生寮で暮らしました。6畳1間、共同便所で共同風呂。食堂に1台ある電話が鳴ると、オーナー夫妻がとりついで「117号室の吉田さん、お電話ですよ〜」と館内放送。毎晩あちこちの部屋で酒盛りやケンカ騒ぎがあり、彼女ができても連れ込むなんてとても無理なくらいの、典型的バンカラ学生生活でした。

授業の合間にお世話になる学生食堂は、当時2種類ありまして、私はセレブな方にはとても行けず、庶民派食堂で素うどんを主食にしていました。たまにバイト料が入った時は奮発して、カレーうどんとライスを発注。カレーライス&素うどんというパターンよりも100円安かったのでお得でしたわん。

食堂や芝生、教室や寮など場所を選ばず、気の合った友人たちと唾を飛ばして議論を交わし合っていました。芸術論や人生論、社会問題や世界情勢、政治や哲学などなど、多彩な話題を熱く語り合ったものです。

全共闘世代の残党もどきや、共産党系や反代々木系活動家もウロウロと走り回っていましたし、原理研究会や歎異抄研究会などの宗教系サークルや部落解放研究会や朝鮮民族研究会などの思想系サークルなども入り乱れ、大阪の大学らしいド派手なバイタリティーにあふれていました。同時に、芸術系らしい独自性と創造性あるキャンパスだったと思います。

そんな日々の忘れられないエピソードや、甘酸っぱい恋愛譚なんかを、「その2」以降でご紹介させていただく目論見です。いつになるかわかりませんが、適度な期待でゆるゆるとお待ち下さい。


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