私の青年時代

私の学生時代 その2

昭和56年(1981)に入学した私立大阪芸術大学は、実にユニークな大学でした。時代を先取りしすぎ(?)の奇抜なファッションの学生があちこちで行き交い、個性を発揮し合っていたのです。

清楚なセレブお嬢様やおミズ丸出しのおねえちゃん。素っ裸にオーバーオール姿の不思議男や、どう見ても中年太りでモジャモジャ髭の19歳がいるかと思うと、ホスト顔負けのダンディー兄さんの隣には懐かしリーゼントに学ランのツッパリが・・・・・。おどろおどろしいほど多士済々でした。

先輩には、時任三郎、世良公則、笑福亭笑瓶、作家の中島らも、炎の転校生の島本和彦、エヴァンゲリオンの庵野秀明、スーパーマリオの近藤浩治、キッチュこと松尾貴史、劇団☆新感線主宰いのうえひでのり等々、ビッグネームがずらり。多士済々でしょ。

同級生は、俳優の筧利夫と渡辺いっけい、映画監督の橋口亮輔、アニメクリエーター船越英之、サンデージャポンのプロデューサー正木敦、春蝶最後の弟子桂蝶六などがいます。どう見ても年上に見える古田新太や竹内都子は後輩です。イモ欽トリオの長江健次が入学した時はちょっぴりパニックでした。羽野晶紀や大塚愛などの有名人も後輩。えっへんと威張っても何も出まへんけどね。

『日本沈没』の小松左京や溝口健次作品の脚本家依田義賢などの教授陣の特別授業を受けました。サークルは、京都の先輩につかまって第三文明研究会に所属しました。文化芸術や哲学を深めるために人間生命や宇宙を研鑽するという、一風変わったサークルです。蝶六がいた落研や『猫じゃないもん』の矢野健太郎が創設した伝説のアニメ研「CAS」に挟まれた部室で活動していました。

1年生の思い出は2つ。夏休み明けの夕方、寮でサークル仲間とダベっていたとき、何と爆発が発生したのです。さすがにビックリしました。今でも思い出しますが、必死でバケリレーして、大火事になる前に食い止めることに成功しました。無責任に逃げていたら大惨事だった思います。デザイン学科の学生の留守宅で、密封されたシンナーが熱気で爆発したらしいです。気をつけなあきませんよね〜。

冬に経験した忘れられない出来事は、数ヶ月間サークルでイベント準備を重ねてきた最終盤でのチョンボ。部室の鍵を預かった私が、すっかり忘れて女子寮で酔いつぶれて寝坊してしまったのです。何というスキャンダル! 先輩から大目玉を食ったことは言うまでもありません。「どこで寝ていたのか」を厳しく詮議されましたが、口を割らずに頑張りました。だって、男の子だもん!

2年生の五月祭では、ヒューマンコンサートのディレクターを託されました。プレッシャーと闘いながら、シナリオ、企画構成、演出から舞台裏の準備、ビラを配っての人集めまで、寝る間も惜しんで走りました。本番直前数日はほとんど完徹。ついにリハーサル直後の休憩中に打ち合わせしていた時、倒れてしまったのです。

意識を失っている間も、「もっと笑顔で!」とか「そこでジャンプ!」とか口走っていたそうです。ようやく目が覚めた時、3年生の先輩(うれしいことに1,2回生みんなが憧れていた音楽学科の女子)が、枕もとで見つめてくれていました。目と目が合った瞬間、「うひゃー、死んでもええ!」と不遜な気持ちになりましたよ、ええ。(←遠い目)

ヒューマンコンサートが大成功に終わった瞬間、あまりにストイックな激闘を共にした歓喜でしょうか、それとも厳しいしごきへのお礼でしょうか、後輩たちが私を担ぎあげ、ワッショイと連呼し池に放り投げてくれたのです。おかげで私は完全に風邪をひき、激しくも甘酸っぱく行われた「打ち上げ」を、涙を飲んで欠席するはめに。ねっ、思わず涙を誘われるエピソードでしょ?(アホかという声あり)

若いエネルギーが爆発した、ハチャメチャなキャンパスライフの一端は、読者の皆さんに伝わったでしょうか。

素晴らしい先輩や同級生、後輩たちに恵まれた日々――。今も年賀状などでお付き合いを続けさせて頂いている方々との友情は、私にとって宝物です。

「その3」では、大阪南部の自然豊かなキャンパスでの思い出や、公明党との出会いなんかも触れることになると思います。いつになるかわかりませんが、適度な期待でゆるゆるとお待ち下さい。

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