私の青年時代

私の社会人時代 その2

昭和60年(1985)4月に入社してから、平成2年(1990)までの5年半、私は大阪の安アパートで1人暮らしをしていました。

昭和の間は富田林駅前のアパート暮らし。平成に入ってから庄内(豊中市)駅前に引っ越し、独身貴族を満喫(?)しました。松本零士の『男おいどん』や高橋留美子の『めぞん一刻』のようなアパートと言ったら、イメージしていただきやすいかも・・・。

基本的には、3日に1回、近所の銭湯に通うのですが、おカネがありませんので、春先から晩秋までは、“朝シャン”もどきをしていました。炊事場で水道の蛇口に頭を差し出してシャンプーし、濡れタオルで全身を洗っていたのです。

今から振り返ると、コンピュータのビジネスマンとは似つかわしくないバンカラな日々でした。カッターシャツはアイロンせずによれよれ。安物スーツもクリーニングに出せず、これもよれよれ。上司が思いあまって、よく中古のネクタイを半分ムリやりにプレゼントしてくれていたくらいです。ホンマに、すいまへんなぁ・・・・。

仕事はハードでした。中途半端は許されない真剣勝負の日々です。商品の性能を訴え、他社製品との比較を語る前の段階において、「なぜコンピュータが必要なのか」を理解してもらうのに、当時は大きなハードルがあったのです。

業界の実態を分析するため、地道に足で稼いで業務上の課題や問題点を浮き彫りにし、解決のための活用法を提案する書類を、何日も徹夜で作成するのですが、現実はマジで甘くありません。

プレゼンで上手くいく方がまれ。現場での臨機応変の対応が求められます。ドタキャンも日常茶飯事でした。「こうあらねばならない」という、型にはまった形式にとらわれては何も進まないのです。まさに、毎日が試行錯誤。中島みゆきの歌で始まるTV番組で取り上げられてもオカしくないような激闘でした。(ちょっと言い過ぎかも?)

当時は、パソコンの初期で、フロッピーも8インチや5インチのソノシートタイプ。ペラペラでした。HDD(ハードディスク)が搭載されていませんので、データだけでなく、プログラムもフロッピーを何枚か差し替えて使うという、今では想像もつかないような代物。

旅行業に納める「旅程管理システム」は、パソコンではなく、ポータブルワープロ“RUPO”に組み込むという苦肉の仕様でした。ちょっとビックリですよね。

売り込む業界も、食品卸売業、薬品販売業、旅行業など、多岐にわたりました。朝から晩まで、書類やチラシがたっぷり詰まった重いビジネス鞄を右手に、汗をぬぐう暇もなく走り回っていました。

そして、血と汗と涙で滲む歓喜の初受注は、大阪市天王寺区の自動車整備工場さん。契約書にサインしていただいたとき、苦労が半端ではなかっただけに、マジで泣きそうでした。うれしかったなぁ。

1年目の苦労が実を結び、2年目からはノウハウを生かし、自動車整備業向けの専用ソフトを自社開発する運びとなりました。本格的なオリジナルソフトをパッケージ化するという、コンピュータ会社にとって大きな前進を刻む「プロジェクト」の中核に入り、緊張感に満ちた激動の日々でした。

はじめてコンピュータを導入されたお客さんは、皆さんキーボード初体験の方ばかり。売り込んだ営業マンである私自らが、お客さんの横で手取り足とり操作を説明しました。油のにおいがたちこめる工場の隅っこにある小さな机に鎮座するグリーンディスプレィと甲高い音の出るドットプリンタの前で、作業着姿の工場長と並んでちょこんと座って、データを打ち込み、伝票用紙をセットし、消耗品入れ替えの講習を繰り返していました。

当時のマシンは、今からは想像もつかないくらい処理速度が遅いので、当日分のデータを打ち終わって「集計」作業のキーを押しても、なかなか終わりません。あるお客さんは、イライラする自分を抑えるため、いっこうに変わらない画面を注視するのをやめて、ゴルフクラブを持ち出し全力でスイング。クタクタになって椅子に座っても、まだ「処理中」のままという笑えない笑い話も多かったくらいです。

当時のハードとソフトは、本当に高額でした。今のパソコンは十何万の世界ですが、その何十何百倍もするという超のつく高級品なので、1度や2度の商談ではお客さんも即決できません。慎重な検討の結果、「わかった、おまはんの言葉を信じるわ」との極限の決断となります。まさに一服のドラマ。

ですから、毎月何台も売れません。2ヶ月に3台という、のんびりしたペースでしたが、それでも莫大な売り上げとなりました。その後、普及がすすむと、価格が破壊されてリーズナブルになってくるのは世の常。バブル絶頂期には、スピードなどの性能も向上し、値も下がってきたので契約は取れやすくなりましたが、その分、台数のノルマは激しくなってきました。

若手社員で飲みに行ったとき、よく言っていたのが、「ウチはほんまに、毎日が戦争みたいやね」というセリフでした。勝つか負けるか、生きるか死ぬか――という表現が大袈裟ではない激烈な日々だったと、今にして思います。

文字通り、生き馬の目を抜く「戦場」をくぐり抜けたおかげで、周到さと粘り、忍耐を培うことができたと実感しています。ある意味、幸せな社会人生活だったなぁと実感。上司や同僚、お客さんや取引先など、全ての関係者に感謝です。

さて、次回は甘酸っぱい思い出もなんかも紹介しちゃおうかな? 「私の青年時代」シリーズ、次回の掲載は未定ですが、あまり期待せずにお待ちくださいませ。


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