吉田たかお演説集

さわやかセミナー 「華麗なる源氏物語の世界」

平成20年(2008年)9月15日 新猪熊会館

※乾隆学区で開催されたセミナーに招待され、「源氏物語」について講演をさせていただきました。手製のパンフレットと紙芝居で、汗をふきふき奮闘。良い経験になりました。
 

【はじめに】
  皆さん、こんにちは。本日は乾隆学区のさわやかセミナーにご招待いただき、心より御礼申し上げます。ありがとうございました。

 「華麗なる源氏物語の世界」とのテーマで講演せよとのご依頼をいただいたのですが、「そんな柄でないので」と何度も何度もお断りしていました。でも、日ごろお世話になっている先輩方からの誠意あるお誘いをお断りするわけにもいかず、お引き受けした次第です。

 さきほど、司会の方から「吉田議員は芸大の出身で、古典や芸術に造詣が深く、現在は京都市議会で文化芸術振興の先頭を走って活躍中です」と紹介されましたが、そんな大層な人間ではありません。思わず、帰ろうかと思いました。

 と言いましても、私自身、昨年5月の本会議代表質問で、「源氏物語の魅力を多くの人に広めていくべきである」と、偉そうに主張していましたので、その張本人が逃げ出すわけにはいきません。勇気を振り絞って、必死で勉強した自分なりの「発見」を語らせていただきます。よろしくお願いします。
 

【世界に誇る文化遺産】
 今年(2008年)の11月1日は、源氏物語の存在が歴史上で証明されているといわれている日から、ちょうど千年目にあたるといわれています。京都市も、府や各関係機関と力を合わせ、千年目の節目を祝う「千年紀事業」を全力で推進し、多くの観光客が訪れ、一種のブームになっています。

 作家の瀬戸内寂聴さんは、「世界に輝く第一級の小説として、千年の生命を保ち続けている。もし日本の文化的遺産を一つあげよといわれたら、私は躊躇(ちゅうちょ)無く源氏物語を推すだろう」と述べておられます。

 現在、英語・フランス語・ドイツ語だけでなく、チェコ語やスウェーデン語、ヒンズー語など、実に20の言語に翻訳され、世界最古の長編小説として内外の読者に愛されている源氏物語は、まさに世界に誇る古典であるといっても過言ではありません。

 しかも、私たちの上京区は、源氏物語の舞台です。乾隆学区のすぐ近所に、紫式部のお墓もありますし、私の住む出水学区は、だいたい千本通りから智恵光院通りくらいまでが、平安時代の大内裏(だいだいり)の跡地です。

 最近は、史跡ウォークラリーで、上京区一帯を他府県の方々が見学に来られています。まさに、上京区は「世界の憧れ・京都」の中心地なのですよね。

 私も大阪の大学に通っていた頃、「どこの出身なん?」と聞かれて「京都や」と答えたら、「えっ、イメージに合わへん。嘘やろ!」とか言われまして、「失礼なっ!」と憤慨した経験があります。それくらい、日本人にとって京都は特別な存在なのかなと、今になって改めて思います。
 

【源氏物語のあらすじ】
 ここで、源氏物語のあらすじを箇条書き風に簡単に紹介します。

(1)

絶世の美貌に恵まれた貴公子・光源氏が、亡き母の面影を追って、数々の女性と恋愛遍歴を重ねるうち、義理の母・藤壺との道ならぬ恋に苦しむ。

(2)

理想の女性・紫の上と出会い、結婚するも子どもができず、逆に藤壺が不義の子を出産してしまう。

(3)

権力闘争に巻き込まれ、一時は失脚するも、実力で勝利を勝ち取り、権力の絶頂に君臨する。

(4)

わが子が天皇に即位するという誰にも言えない苦悩と戦うなか、上皇から託された女三宮を正妻として迎えたが、彼女が不義の子・薫大将を宿すという運命のドラマを受け入れる。

(5) 光源氏の宿命の子・薫大将も複雑な恋愛模様に翻弄(ほんろう)されてしまい、2人の貴公子から求愛された美女・浮舟が自殺を図って命を取りとめた後、仏門にはいるところで、この大河小説は幕を下ろす。

 いかがですか、複雑でしょう。お手元の資料に系図を載せましたが、登場人物が多すぎて本当に大変です。私自身も混乱しているので、皆さんにこの場でストーンと理解してくださいと、お願いするつもりはありません。それくらいのスケールの大きい物語であること、そして1人1人の性格や生い立ちが個性豊かに描かれているということ、この2点をおさえていただければ結構かと思います。

 実は私、はじめて読んだ時、美しい誤解がありまして、「源氏」というくらいですから、「平家物語」のような勇壮な軍記物語とばかり思い込んでいたのです。だから、平安時代の貴族の恋愛がこれでもかと繰り広げられる「ギャップ」に、正直苦しめられました。

 まして、室町時代や江戸時代の研究者は、儒教文化の時代ですから、私以上に苦しんだでしょうね。今でも、私の周囲の男性の中で、全篇を読んだ人はいません。
 

【源氏物語の魅力発見】
 そこで、私なりに「発見」したいくつかのうち、1つめを紹介します。 エリートやインテリと言われている男性ほど、源氏物語を余り読んでいないのはなぜか。それは、「皇室の不倫」が描かれていて違和感があるからではないでしょうか。逆に、身分や血筋にとらわれずに、純粋に芸術の本質を求める人は、源氏の魅力に取りつかれています。皇室の尊厳に束縛されない海外の外交官やジャーナリストなどが愛読していたらしいです。

 2つめの発見。瀬戸内寂聴さんの本を読んで実感したのですが、主人公は光源氏ではなくて、彼を取り巻く個性あふれる魅力的な女性一人ひとりであるということなんですね。政略結婚の犠牲になりがちな女性の心の叫びを代弁し、苦悩を乗り越えた生き様を描いたのが源氏物語であると言えるのではないでしょうか。

 権力争奪の陰で展開される壮大な人間模様を描きながら、紫式部は宿命に翻弄される女性たちの哀しさと逞しさを表現したかったのではないかと私は思うのですが、皆さんはどのように思われますか。

 次の3つめは、私の勝手な解釈かもしれませんが、物語の奥底に、権力に媚びない「人間本位」の思想が流れているということです。光源氏を身分の低い后の子に設定したこと。藤原氏出身としか思えない弘徽殿の女御を敵役に設定したこと。美貌に恵まれ光源氏の寵愛を一身に受ける紫の上が必ずしも幸福ではないとの人物造形がされていることなどなど。いかがでしょう。

 4つめの発見は、 仏教を肯定的に描いているという点です。不義の子を産み苦悩にあえぐ藤壺が、出家してから見違えるように力強く生き抜くこと。自殺を図った浮舟が仏教に巡り合って絶望から立ち直り、生きることを選択する場面をクライマックスにしたことなどなど。

 単なる加持祈祷だけでない、仏教の奥深さを、紫式部は理解していたのではないでしょうか。だからこそ「源氏物語」は、平安時代の恋愛を描きながら、時代や国境を越えて、多くの人々の心の琴線を揺さぶるのではないかと思うのです。

 5つめは、当時の時代背景です。平安と名付けられるくらい、当時の日本は平和でした。華麗で優美な貴族文化は、戦争の無い平和な時代だからこそ花開いたのですが、実は同じ時代、中国では唐が滅亡したあと宋が統一するまで、戦乱の悲劇が繰り返されていました。

 逆に、中国が平和になった時期には、周辺の国々では戦乱が始まります。源平合戦のころは宋王朝が安定していますし、信長や秀吉の戦国時代は、明王朝でありました。歴史の不思議さを感じます。

 私は、21世紀のグローバル時代は、他国の犠牲の上に平和を築くことは許されないと思います。すべての国々の平和を勝ち取るためにも、人類普遍の価値観が大事であり、そのためにも庶民レベルの文化交流が重要ではないでしょうか。

 偉そうなことを申し上げて、すいません。本日ご紹介した何点かについて、1つでも2つでも、皆さんにとって新しい「発見」になれば、これ以上の幸せはありません。慈悲深く受け入れてやってくださいますよう、お願いします。
 

【悲運の貴公子】
 最後に、1人の貴公子を紹介させていただきます。藤原道長の甥にあたる藤原隆家という人物です。

 彼は、19歳の若さで藤原道長と「七条大路の合戦」と言われるような武力衝突を起こし、翌年には花山法皇の牛車に矢をかけて恫喝するという前代未聞の不祥事を勃発して処分されています。平安貴族のイメージとかけ離れる物凄い暴れ者でありながら、実は様々な文献によりますと、教養と美貌に恵まれた貴公子だったと言います。

 文字通り「お上に弓を引く」というこれ以上ない極悪犯罪を犯しておきながら、しばらくして何もなかったかのように宮中に復帰した、この隆家という人物。実は、道長の兄・道隆の息子にして、中宮定子という清少納言が仕えた有名な皇后の弟でして、最高の家柄に育ち、バラ色の将来を約束されていながら、父の急死により、権力の絶頂から奈落の底に転落するという、文字通り波瀾万丈の青春を余儀なくされているのです。

 当時最高の女流歌人と謳われた母・高階貴子は、百人一首「忘れじの行末まではかたければ、今日を限りの命ともがな」の作者としても有名ですが、夫を追うように亡くなり、姉の定子も出産時の病気で急死。本来は藤原氏の直系を継ぐはずの兄も、「和漢朗詠集」に残る漢詩で有名な天才でしたが、悲運のうちに亡くなってしまいました。

 道長との苛烈な権力闘争に敗れ、出世の見込みを失った飼い殺しの日々を送る彼の胸中は、想像もできないくらいの苦い憤懣(ふんまん)に煮えたぎっていたのかもしれません。
 

【日本の国難を救う】
 隆家が次に歴史の舞台に登場するのは、寛仁3年(1019年)。41歳の中堅公卿として第二の人生を歩んでいた彼は、甘いも辛いも吸い分けた名君として、任地の大宰府(現・福岡県)で善政を施いていたのですが、突然来襲した数千もの異国の大軍を迎え撃ったのです。

 この「刀伊(とい)の入寇」と言われる戦争は、農民や女子ども400人近くが虐殺され、1,200人以上が拉致されるという、300年後の元寇にも匹敵する未曾有の国難でした。のちの時代に清帝国を打ち建てる女真族(にょしんぞく)に対して、都からの救援もない孤立無援であったにもかかわらず果敢に戦いを挑み、ついに撃退に成功。

 インターネットで調べたら、「日本の領土に上陸した敵軍を撃退した日本最初の人物である」と書かれていました。しかし、隆家は褒められるどころか、都からの勅命を無視したと非難されたといいます。いつの時代にも、真の英雄は毀誉褒貶(きよほうへん)が付きまとうものですよね。

 名誉とか出世とか、財産にこだわってしまう人間の弱さを乗り越え、保身にこがれる官僚主義を克服して、自身の使命の人生を切り開き、日本を救った隆家という、歴史に埋もれた英雄を発見できた歓びを、私は心の底からかみしめています。

 以上、長くなりましたが、これで私の拙いお話を終わらせていただきます。最後までお聞き下さり、ありがとうございました。
 

(ありがたいことに、ご好評を頂戴し、クチコミで噂になったとのことで、この前後に西陣学区をふくめ、合計3回の講演をさせていただきました)


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